エロースの徒
(高校生当時に書いたものです)
私は疾うより、己への嫌悪も、阿諛も、怠惰も、全てそれと装った愛憐にすぎないことを、知っていた。
あの時分殴りたおした男も、あの時分抱いた女も、詰まるところ自己愛故の行いの相手であり、別に憤怒に駆られた訳でもなければ、情欲に負けた訳でもない。
ただ、宵の悔悟の肴にするがためだ。
そして、極まって、小鳥の戯れを聞く時は、確かに唇に感触があるのだ。
重く、のしかかるような柔らかさ。
ああ、私は恋ができないであろう。
暴力的なまでの、圧倒的な恋。
その肌に触れたならば、私の自己愛、否、自己拘束は、小康を得るというのに。
昔の自分に言うのもなんだが、言葉の勉強をするべきである。 2017 11 30 追記